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2018年12月15日 (土)

元井上工業会長・井上健太郎氏 逝去

私が新卒で入社し、数年前にもう倒産してなくなっている、高崎白衣大観音もつくった、高崎市の伝統ある建設会社であった井上工業の元会長、井上健太郎さんの訃報が、昨日の上毛新聞に掲載されました。井上OBの間では情報が駆け巡りました。

健太郎元会長については、井上工業の古くからの先輩や、祖父である房一郎氏や高高OBなども含め、関係者がとても多く、いろんな思いをお持ちの方がいらっしゃるはずなので、私のようなものが何かを書くことははばかられるのですが、ごく小さな断片を少し・・・。誤りもあると思うのですが、ご関係の方におかれましてはご容赦頂ければと存じます。

健太郎元会長は、バブルの時に積極的にリゾート開発などを行なったことによる大きな負債が原因で、会社を追われてしまった方です。井上工業にはマイトンリゾートというのがあって、毎年社員旅行で行ったと聞いていますが、バブルが崩壊して会社の経営が下向きとなり、マイトンに行っていないのが、私の期からです・・・。

私が入社試験を受けた時には、筆記試験後の面接が私がトップバッターで、事前に会社を訪れて気に掛けて下さっていた当時の取締役からの質問をいくつか受けて、その答えを正面で目を見開いて聞いていて、「磯貝君、ありがとう!」と言って頂いて面接が終了しました。その時の元会長のオーラのものすごさは今でも覚えています。私が若かったせいもあるでしょうけれど。
そして、設計を続けるべきかやや迷っていた私を、その元取締役の方や熊倉浩康さんなどのおかげもあると思いますが、そうした関連会社へ配属して下さったのも、私の人生に大きな影響を与え、とても感謝しているところでもあります。

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そして、特に印象的だったのが、既に井上工業本体の社長を解任されて、私がいた関連会社の社長にだけ残っていた時期の冬、今でいう「旧井上房一郎邸」に、新年会で招待して頂いたことです。そこはストーブでとても暖かく、ピカソのサイン入りの画集などがポンと置いてあるようなところで、会社に入って2年目?くらいの私は、緊張しながらすごしたといったことは、かなり以前にブログでも書いた記憶があります。

写真は10年前の、高崎哲学堂として使っていたころの写真でイマイチですが、今はご存知の方も多いと思いますが、高崎駅西口の高崎市立美術館の展示の一部となっていますので、どなたでもご覧になれます。だた、家というのは、生活していないと家としての実際の雰囲気がわからないものですが、ちょっぴり自慢なのは、「家の主がいる最後の時期」に、ここの空間を、少しですが味わえたことです。今でも平屋をご希望のお施主様には、「一度、見に行かれては?」とオススメしていますし、しばらく前には、建築雑誌でたびたび取り上げられ、全国から建築ファンが来る、意義のある住宅です。

ということで、長くなってしまいましたが、健太郎元会長はどこにいらっしゃるのか周りに聞いてもわからなかったのですが、東京にいらっしゃったとは驚きでした。そして、62歳とは若すぎる最期のように思います。健太郎元会長にはいろんな思いをお持ちの方がいらっしゃると思いますが、私としては、心からの御礼を申し上げるとともに、ご冥福をお祈りいたします。

高校の同窓会総会の仲間に入ったせいもあるのでしょうか、今日は予定を変えて、情報収集とブログ・FB対応をしています。もう井上工業は、本当に終わったんだなと感傷的になります。でも、高崎では、井上工業の伝統的な功績は、株式会社井ノ上さんが引き継いでいるようですので、ますますのご発展を祈念する次第です。

磯貝地域建築設計事務所WEBサイト

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コメント

磯貝様
投稿より4年も経ってから突然のコメント、失礼します。
1992年4月から4年間井上工業に在籍した者です。
何故か、ふと井上健太郎氏のことが気になって名前を検索してみようと思い立ち、こちらのブログを拝見して4年も前に逝去されていると知り驚くと同時に、色々思い出すこともあってコメントせずにいられない心境となりました。
私は健太郎氏が推し進めたマイトンリゾートのバンコクでの代理店と在タイ日本人向情報誌の出版業務のため、入社してすぐにバンコクの現地法人に出向し、2年間滞在しました。タイに行かせたということからだと思いますが、ペーペーの新入社員にもかかわらず、色々気にかけていただきました。とはいえ、そもそもの階級の差に加え、健太郎氏はオーラや圧がもの凄く、当時はできるだけ近寄りたくないと思っていたのが本音ではあります。しかし、井上工業での経験がその後の私の人生を変えたと言っても過言ではなく、今は感謝しかありません。
会長を退任された時も年齢的にはまだまだだったはずで、今頃は井上工業とは別のフィールドで捲土重来を果たされているだろうと思っていたので、63歳という若さで逝去されていたと知り、愕然といたしました。
遅ればせながら、ご冥福をお祈りしたいと思います。

投稿: 福島竜太 | 2023年1月 4日 (水) 08:07

新堀様 

この度は、コメントを頂き、誠にありがとうございました。ご連絡が遅くなり申し訳ありません。
はい、私は、井上工業の関連会社で、熊倉さんのいらしたキャド計画研究所に出向していました。

その後、数人の井上OBに聞いてみたのですが、この記事の通り、上毛新聞にお悔やみが載ったのは2018/12/14で間違いないはずですが、命日がいつかは、今のところわかりませんでした。せっかくでしたのに、お役に立てずに申し訳ありません。何かわかりましたら、お知らせ頂いているアドレスの方にお送りできればと思っております。

健太郎元会長がお亡くなりになられてもう2年半にもなるのだなと改めて感じますが、それであっても、こうして健太郎元会長のことを思う方がいらっしゃることに、健太郎会長の偉大さを感じる次第です。

私も建築関係の仕事を続けていますが、特にタウトやレーモンド、磯崎新さん、隈研吾さんなど、井上家の方々の功績を感じる場面はたくさんあって、とてもうれしくなります。

また宜しくお願いいたします。

投稿: 磯貝俊行 | 2021年7月10日 (土) 16:13

こんにちは、この記事を検索エンジンで知り、井上健太郎氏が逝去されことを知りました。私も井上工業の子会社で働いていましたが、色々と記憶がよみがえります。
確か、熊倉さんの所にいらっしゃったのでしょうか?
旧井上房一郎邸の写真などを拝見すると懐かしくなります。
最後に、井上健太郎氏の命日はいつただったか知っておられましたら、教えて下さい。
では、失礼します。

投稿: 新堀龍明 | 2021年7月 2日 (金) 16:11

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